今にして思い起こすと、まるで奇跡のような経緯を経て、
看護師として働く最初の職場として、近所の老人ホームに就職することができた。
就職活動で起きた奇跡
電車やバスを使わず、徒歩で20分で行けるというのは、
住み込みの時などを除けば、私の歴代の通勤の最短距離だったといってもいい。
婦長さんと面接し、無事働けるようになったのだが、ここで一つ問題があった。
最初はヘルパーとして
私はニュージャージーの学校を卒業したのだが、ニューヨーク州の看護免許を取得した。
理由はニューヨークの方が、就職先が多いと思ったからだった。
アメリカの場合、看護学校を卒業して受ける試験は全国共通で、
そういった意味で私はこのブログで「国家試験」という言葉を使わせてもらっている。
しかし、その際、自分が選択した、たった一つの州の免許しか取ることができないのである。
もし、他の州で働きたい場合は、追加料金を払って、別の州の免許を申請しなければならないのだ。
(だいたい2万円強ぐらいかかる。ちなみに私は就職活動絡みでニューヨークを含め、現在3州の免許を所持中。)
当時私は、ニュージャージー州の准看の免許は持っていなかった。
しかし、学校の授業の一環で取得できる、ヘルパーの資格は持っていたのだ。
そういったわけで、ニュージャージー州の准看の免許の申請をしている間、
私はまず、ヘルパーとして老人ホームで働くことになったのだった。
貴重な経験
他州の免許からの追加申請の場合でも、だいたい受理してから免許を発行してもらえるまで一か月以上はかかる。
学校のほぼ見学のような、
なあなあの実習の経験しかなかった私にとって、現場は未知の空間だったといっても過言ではない。
オリエンテーションということで、最初の3日間は先輩のヘルパーさんについて、仕事を教えてもらう。
その後、副婦長さんによる簡単な実務テストに合格すると、
その日から、一人前の仕事量をふりわけられてしまうのだ。
とはいっても、3日間で習得できるのは、ほんの一部のことにすぎない。
しかし、これからわからないことがあっても、
基本的に一人で解決していかなければならなかったのだ。
「わからないことがあったら、いつでも聞いて」
みな口々にそう言ってくれたし、本当にそのつもりなんだと思う。
だけど、いざ業務が始まってしまえば、
誰もがあまりにも忙しすぎて、
とても、いちいち質問できるような状況ではなかった。
よっぽど、切羽詰まったようなこと以外は、
本当に自分で考えて対処していくしかないのである。
私が実感したのは、老人ホームにおけるヘルパーの最たる仕事というのは、
おむつ替えにつきる、といったことだ。
そう言ってしまえば、単純極まりないのだが、
患者さんが全く動けない場合や、ギブスをしていたり、管につながれていたりだとか。
車椅子に座っているから、おむつ替えのためにベッドに移さなければならないのだけど、
半身不随の患者さんで、自分一人でどうやって安全に移動できるのか。
そんなこと、いちいちが最初の頃はわからないことだらけなのだ。
もちろん教科書に、そういったことは載っているのだけど、
本を読んで誰もが縦列駐車ができるようになるかといったら、そういうわけではない。
患者さん一人一人、その時の部屋の配置などシチュエーションは教科書通りにいかないわけで、
これは本当に経験を積んでいって、体でおぼえていくしかないのでは、と思った。
先輩たちも、親切な人はもちろんいたけど、
中には決してお願いしても教えてくれなかったり、
教えてくれても、嫌味を言われたりするようなことも多々あった。
これが社会人になりたての20そこそこの小娘だったら、相当こたえていたかもしれないけど、
一応日本でブラック企業経験があった私なので、何とか耐えることができた。
ブラック企業に勤めることでよかった、と思えた数少ない事例だった。
また、辛い就職活動を経た後の仕事だったため、
とにかくこの仕事を確保しなければと必死だったので、
辛さを感じている暇がなかったという面もある。
ヘルパーをして得ることができたもの
最初から看護師になれれば、確かに楽だったかもしれないが、このヘルパーとして働く経験は、私にとって代えがたい貴重なものとして、後々生きていくことになった。
その最たるものとして、ヘルパーとしての苦労や、気持ちを実感できたことだった。
ある種の苦労というのは、決して経験しなければわからないものがある。
ヘルパーとしての苦労は、まさにそれで、それを経験することはなく、
どれだけ抵抗する患者さんのおむつを替えなければいけなかったり、
8時間で、他の業務をしながら、4人の患者さんにシャワーを浴びさせたりしなければいけない、
などといった苦労や、肉体的負担は、理解できることはないと断言できる。
それはその後、看護師として、ヘルパーさん達と一緒に働き、
彼らを理解し、上手くやってい上で、この上ない財産となったのだった。
祝福され、助けられ
約1か月が過ぎ、無事にニュージャージーの准看免許を手にすることができ、今度は看護師としてのオリエンテーションをすることになった。
実は、隠していたつもりはなかったものの、一緒に働いていたヘルパーさん達には、
自分が看護師になるのだということは、言いそびれていた。
看護師としてオリエンテーションをしている私を目にして、
「どうして言ってくれなかったのよ!」
と、なじられたが、決して悪意はこもっていなかった。
一か月の間、私は辛抱強く、あまり親切ではない先輩たちにも礼儀正しく接し、
嫌味を言われたり、理不尽に怒られたとしても、
とにかく教えてくれたり、助けてくれた場合は、心から感謝の意を示していたのだ。
そうしているうちに、そんな先輩たちの態度も和らいできて、
この頃には、ほとんどのヘルパーさんとうまくやっていけれるようになっていた。
私を仲間として認めてくれていて、その中から看護師として出世した、といったように、祝福すらしてくれたのだ。
ヘルパーの苦労を実感した1か月間だったけれど、
そこからは、今度は思ってもみなかった看護師としての苦労を目の当たりにすることになる。
それはそれで、これも本当に体験して初めてわかるといった種類のものであった。
これは、少なからぬ新人看護師たちが、心折れて、ギブアップしてしまうぐらいの苦労なのだけど、
私は幸運なことに、先輩ヘルパーさん達の全面バックアップを受けて、
何とか乗り切ることができたのだった。
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