前回は、第一次就職氷河期で見事に散った私の体験を書かせてもらった。
こんなはずじゃなかった… その1 第一次就職氷河期
そう、私にはこの就職氷河期のトラウマ…そしてそれに派生する、ブラック企業勤め、
さらにはアメリカでのリストラ…と数々の、就職絡みの傷を負った女なのである。
そんな私が何のために看護師になろうとしたかなんて、
火を見るよりも明らかであろう。
看護師だったら就職先なんて、このご時世でも、選べるぐらいあるだろう。
数年前に、こちらで看護師になった同じ日本人女性の方が言っていた。
彼女は、就職活動を始めた第一日目で、就職先が決まってしまったとのことだ。
そんな話を聞いていたので、いやでも期待するではないか。
准看護学校を卒業し、国家試験にも受かった私は、
そんなわけで期待に胸膨らませて、就職活動を始めたのであるが…
現実はまたしても残酷だった
看護師の求人は本当にいたるところに出ていた。見つけるたびに、一件、一件応募するのだが、全く反応なし。
日本と違い、応募してもお祈りメールの返信すらくれない。
完全にスル―なのである。
オープンハウスといって、就職説明会みたいなのに行っても、
「ごめんね、今回は3年以上の経験のある看護師のみを採用したいのよ」
などど言われるに当たって、ようやく悟った。
巷にあふれる看護師の求人…これは数年前は違ったかもしれないけれど、
今は経験のある看護師のためのものだったということに。
ショックと同時に、混乱もしていた。
あれ?私は日本で広告代理店とか、TV局の就職活動をしてるんじゃないんだよね。
看護師なんだよね?
なのに、これだけ応募しているのに面接までも行かないって、どういうこと!?
一つ救いだったのは、学校の同級生たちも、コネがあった子たち以外は私と同様に苦戦していて、
一人として内定をもらえた子はその時点でいなかったということだった。
密かに私の英語力などが、障害になっているのかな、と気がかりだったので、
それはいちおう大丈夫なんだ、と安心できた。
…かといって、1か月を過ぎても全く動きがなかったので、これは長期戦決定だと思ったので、
和洋折衷のお惣菜屋さんでバイトを始めることにした。
スタッフ全員、日本人で、皆よい方たちだったので、
辛い就職活動期間において、ここでバイトするのは、
お金をもらえることに加えて、かなりの癒しも与えてくれた。
他の職種ですら惨敗
2か月目になっても、進展がなく、心が折れ始めてきた。引き続き、老人ホームの准看護師のポジションに応募し続けてはいたものの、
昔お世話になった日系の派遣会社の営業さんが連絡をくれたこともあって、
日系企業の事務や販売などの求人も応募しはじめた。
さらには、とにかくどういった形でも、老人ホームに採用されれば道が開けるかもしれない、と思った。
たとえば、ヘルパーとして採用されてしばらく働いて信用を得る。
そして、実は私准看の免許持っているんです、なんて言えば、
看護師として雇ってもらえるかもしれない、なんて目論んだのだ。
准看の学校に行くと、ヘルパーの資格も自動的に取得することができたのだ。
そうは思ったものの、日系企業への就職活動もあまり進展がなく、
ヘルパーとして応募しても「未経験はお断り」と言われる有様で、
ほとほと行き詰ってしまっていた。
挫折と震災と
就職活動を始めて4か月を過ぎても、相変わらず准看の仕事はもちろんのこと、他の仕事ですら内定が一つももらえていなかった。
そんな中、たまたま見つけたアメリカの大企業の日本語絡みのポジションを、
しゃれで応募したところ、一次審査を突破。
二次審査、三次審査もあれよあれよ、という間に無事突破して、
なんと最終審査に進むことになってしまったのだった。
この時点で、もう准看になるということはほとんど頭になかったと言っていい。
アメリカ企業でバリバリ働く、キャリアウーマンの自分を夢想していた。
だが、最終審査で見事に散った。
この時は、さすがにお祈りメールをもらえたが。
数日私は、抜け殻のようにただ部屋でぼーっとしていた。
時は2011年の3月だった。
その時は、テレビがある部屋に下宿していたので、1日中、ずっと震災のニュースを見ていた。
震災にも、自分の惨敗ぶりにもショックだったが、惰性で応募は続けた。
しばらくして、初めて、老人ホームから面接の連絡の電話が来た。
ヘルパーのポジションで応募したところからだった。
そして、結果として、准看の仕事をゲットすることになったのだった。
続きは、また次の記事にて…
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