「赤毛のアン」が好きである。
好き、という言葉ではすまない。
この作品は私の人生の一部、といっても過言ではないのだ。
物心ついたときに、世界名作劇業のアニメで刷り込みを受け、
母所有の村岡花子訳の原作の文庫本が自宅にあったので、
小学生の頃から、いい大人になるまで、折に触れて、何度も何度も読み返している。
和訳されているアンシリーズはほぼ全て読破し、
作品に関連する研究本、作者モンゴメリの自伝、伝記、研究本など、
手あたり次第、手に入る本は読みまくった。
カナダに滞在していたときは、原典を読み、
プリンスエドワード島への聖地巡礼もはたした。
というわけで、「赤毛のアン」という作品は私の中で、とても特別な作品で、
今でもそうあり続けている。
それで、である。
2年前、ネットサーフィンをしていたらとんでもないニュースを目にした。
これまた私にとっては特別な作品、「ブレイキングバッド」の脚本家による脚本で、
新たに「赤毛のアン」が製作されるというではないか!
そのニュースを知って、文字通り、私の心臓は跳ね上がり、動悸を感じた。
数日はソワソワ、していたと思う。
「赤毛のアン」と「ブレイキングバッド」という、好きという言葉では済ますことのできない、
私にとって大事な二つの作品が、思いもかけず、一つの接点をもつことになったのだ。
興奮せずにはいられず、以来、公開されるその日まで心待ちにしていた。
シーズン1は昨年の公開だった。
それから1年たって、今年シーズン2が公開されたわけだが、今に至るまで、感想を書こうという気持ちになれなかった。
注!
ここから、ネタバレが入ります。
でも、これだけは、お伝えしたい。
シーズン1を見て、ちょっとダメだなー、と思ったあなた!
どうか気を取り直して、シーズン2も見てください。
俄然、面白くなっているから!
以下、ネタバレ開始。。。
この「アンという名の少女」という作品。
よく目にするのが、「現在的な解釈を大胆に取り入れて、脚色されている」というような解説だ。
まあ、確かにその通りなのだが、ぶっちゃけ、ここまで変えちゃっていいの!と度肝を抜かされる、
大胆もいいとこの改変ぶりなのだ。
これまでの映像化された作品でも、全く原作通りではなく、ところどころディテールや、
ストーリー展開を変えられているケースは、それなりにはあった。
だが、「アンという名の少女」では、原作のストーリー展開のかなり主要な部分を変えてしまい、
原作に出てこない登場人物が結構幅をきかせるわなんわで、
原作をなめるように読んで暗記してしまっているようなコアな原作ファンの一部には受け入れられてない、
というのも、さもありなん、とは思った。
具体的にネタバレすると、
まあ、アンはマリラ、マシュー姉弟の養子となるわけだが、
原作ではアン・シャーリーのままで、実の両親の姓を、ギルバートと結婚するまではずっと名乗っていたわけである。
しかしこの作品では、2話目かなんかのかなり早い段階で、アンはマリラとマシューのクスバート姓を名乗ることになるのだ。
原作では、厳格なマリラがアンに対して心を開いていくのは、一歩一歩、ほんの少しづつであり、
物語が進展していくのと同時に、丁寧に書き込まれていた。
しかし、アンがしょっぱなからアン・クスバートになってしまうことが、あたかも象徴しているかのように、
マリラはいとも簡単にアンに陥落してしまっていて、積極的にアンの母親役を務めようと奮闘している姿が描かれている。
マリラはマリラなのだが、ここまで来てしまうと、なんだかもう別のキャラだよな、と私には思えた。
キャラが違うといえば、マシューである。
マシューといえば、世界名作劇業での刷り込みの、どうしてもこういうビジュアルをイメージするしかない。

しかし「アンという名の少女」のマシューは、なんと髭がないのだ!

ビジュアル的には、マリラ以上に別人なことこの上ないのだが、極限にシャイで、とことん優しいというマシューの
性格は、申し分なく再現されている。
しかし、マシューに関しては、原作の改変というより、もう原作〇イプといってもいいような、変更が行われており、
それがシーズン1では、私は一番、ショックだった。
マシューが原作の最後で亡くなってしまうというのは、悲しいがストーリーの展開的には必要不可欠な出来事だった。
しかし、この作品では、マシューはそのまま生き続けることになるのだ。
そうなると、これから物語が進んでいく中で、アンの進路だとか、マシューの立ち位置はどうなっていくのだろうか、
と全く予想できなくなってきた。
他の主要キャラでは、ギルバートが原作にはない大暴れをしている。
原作では重要なストーリー上の要素だった、アンとギルバートの確執というのが、
この作品では全然小さい扱いで、かなり早い時点であっさりと二人は仲直りしてしまっている。
そして、シーズン1の終わりでは、「世界を見てみたい」とか言って、なんと国際船の乗組員になってしまって、
プリンスエドワード島から旅立ってしまうのだ。
その他、ジョセフィーンおばさんがレズビアンとして描かれていたり、
シーズン2では、まさかの黒人キャラのトリニダード出身のセバスチャンが登場する。
ここまで書くと、脚本家が「ドキュメンタリーと言えるぐらいの、リアリティを求めた」と言ってたそうだが、
まじですか、と言ってしまいそうにはなる。
しかし、リアリティという点に関しては、確かに同意できる点は多々ある。
まず、もう、完璧なアンのキャスティングである。
私にとっては、これまでのあらゆる映像作品の中では、彼女が全くイメージの通りのアンだ。
これまでの作品だと、赤毛で、申し訳程度にそばかすがあるけど、
みんなそこそこ可愛くて、スタイルはいいけど、決して痩せっぽちでない女の子たちがアンを演じていた。
なので、切実なまでの容姿コンプレックだとか、レイチェル婦人に「みすぼらしい子だ」と
罵倒されるというアンに関する描写と、いまいちマッチしなかったのだ。
しかし、今回のアンを演じるエイミーベス・マクナルティはどうだろう。
原作に確か描写があった、アンバラスなぐらいに大きな瞳を持ち、貧弱といえるまでに華奢だ。
しかし、犯しがたい気品と知性を嫌が応にも感じさせるというのは、まさしく原作のアンを再現している。
アンは、物語が進むにつれて、美人になっていくという設定なのだが、その可能性を感じさせる容姿で、
本当に申し分がない。
そして、アンの腹心の友、ダイアナ役のダリア・ベラも、かなり原作のイメージ通りだ。
器量良しと皆に褒められるダイアナ。
これまでのダイアナ役では、私的には彼女が一番可愛いと思った。
性格の良さもにじみ出ているのだけど、アンと比べて平凡な子だというのも十分伝わってくるのだ。
。。。といったわけで、原作ファンとしてはいろいろ複雑な思いを抱いてしまう「アンという名の少女」ではあるが。
シーズン2になってからは、さすがにエミー賞受賞脚本家のモイラ・ウォリー=ベケットの腕前かくや、
という感じで、原作が蹂躙されていようが何だろうが、力尽くでぐいぐいとストーリーに引き込まれて、
一気に見てしまった。
この作品はモンゴメリ原作の赤毛のアンとは違うかもしれない。
本家ではないが、インスパイア系の作品として見事なことこの上ない、といったところだろうか。
シーズン3の感想をアップしました。
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