30代後半で学校に戻って 〰 准看護学校(後編)

NY

前編では、准看護学校のカリキュラムの内容や進学条件などについて書かせてもらった。

30代後半で学校に戻って  准看護学校(前編)

准看護学校に通っていた1年2か月間、

では無職でいったいその間に、どのように生活していたのか、ということを今回は書きたいと思う。

 

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資金源

別れた旦那から慰謝料をもらえたわけではなく、実家からの援助などもない状態だった。

もともとなかった貯金も、持ち出すことが多かった結婚生活のおかげで、

さらに減っていたが、当時はまだわずかに残っていた。

なので、そのなけなしの貯金を切り崩すことと、

この頃になると、以前最悪だった両親との関係もだいぶ修復してきた頃だったので、

自分名義の生命保険の一部を切りくずして、こちらへ少しずづ送金してもらうようにした。

バイト探し

それだと心もとないので、できる限りバイトをしようとした。

最初は海外の日本人バイトの王道、日本食レストランのウェイトレスに応募した。

一週間弱働いて、時間のやりくり的にどうしても無理だと判明した。

バイトが終わって家に帰ってくるのが、夜中の2時前になってしまう。

そして、次の日学校に行くには4時半に起きなければならなかった。

まあ、それでも百歩譲って、ぎりぎり肉体的には無理をすれば可能だったかもしれないけれど、

落第せずに進級するためにはどうしても勉強しなければならない。

毎週あるテストの準備のために、毎日教科書を膨大なページ数、読み込まなければいけなかったのだけど、

英語というハンデもあって、どうしても私には2時間必要だった。

バイトを続けるのだったら、睡眠時間がゼロになってしまう。

例えばバイトに入る日数を週末のみの2日間に限定する、

なんてこともできそうなものだったが、なんせリーマンショックの影響がバイト事情にも及んでいた。

雇う方はなるべく日数入ってくれる方が都合がよいので、

せめて週4日は働いてもらえないと…と言われてしまい、レストランのバイトは辞めることになった。

他のバイトの状況もだいたい同じような感じで、なかなか学校と両立できるバイトがなかった。

そんな中、前職がらみの知り合いの人から、アメリカ人のおじいさんのお世話をするバイトを紹介してもらえた。

看護学生にはぴったりの内容の仕事だったし、

メインで働いている人のカバーという形だったので、週2回でも全然OKで、まさに願ったりかなったり、という感じだった。

大ピンチ

駄菓子菓子。

これで学校生活も安泰と思っていた数か月目、そのおじいさんの容体が急変して、入院となってしまい、

その仕事もそれにて終了と相成ったのだった。

学校は2学期も中盤に差し掛かっていた。

新しい、学校と両立できるようなバイトが見つかるようには、とても思えなかった。

だったら、このまま学校を辞めなければならないのだろうか?

休学する?…といっても、学費ローンとかの支払いはどうなってしまうのだろう?

と、悶々と思い悩んでいた。

あまりに切羽詰まった顔をしていたのか、休み時間にクラスメートにどうしたのか?とたずねられた。

これこれ、こうなって…と話すと、複数のルームメートがアドバイスをくれたり、バイト先などを紹介してくれたりした。

しかし通うのに車が必要なところだったりだとか、いろいろ条件があわなかったりした。

救いの手

もうだめかも…と,あきらめかけていた頃、

クラスメートの一人が自分と一緒にその子の実家に下宿しないか、という話を持ち掛けてくれた。

彼女はかなり遠距離通学だったのだけど、なんせクラスメートなのだから、一緒に通学すればいいのだし。

一瞬、遠慮しようかなとも思ったが、すでに万策尽きていたので、

彼女と彼女のご両親のご厚意にありがたく甘えさせてもらうことにした。

どれくらい遠距離だったかというと、前にも話した通り、

学校自体は都心からみて大宮ぐらいの距離感のところにあったけれど、

クラスメートの家は都心から小田原ぐらいのような感じ。

ニュージャージーをずっと南下していくと、カジノで有名なアトランティックシティがあるのだけれど、

その手前までの一帯はジャージーショアと呼ばれる、夏は海水浴で有名な地域なのだ。

ジャージーショアはTV番組の舞台にもなったぐらいなので、ご存知の方も多いとは思うが、

個人的にはアメリカ版の湘南海岸のよう気がしてならない。

彼女の家はそのジャージーショアにあって、毎日、彼女の運転する車に乗せてもらい、1時間半強かけて通学した。

そこで、それから4か月ほどお世話になった。

彼女の家族の事情や、実は彼女は私より10歳以上も年下だったりしたこともあって、

ジェネレーション・ギャップ、カルチャー・ギャップとともに、

下宿人としての肩身の狭さを常に感じなければいけないのは、ありがたい中でも、ちょっと辛かった。

決定的だったのは、彼女が三学期の途中で落第してしまったので、

その時点で別に住むところを探さなければならなくなってしまったのだ。

彼女のご両親にも本当によくしてもらえて、

本当に彼らなしにはこうして看護師になれなかったといっても過言ではない。

またジャージーショアでバイトを見つけることができたのだ。

ご両親の知り合いに、地元の日本食レストランのオーナーさんがいて、

その地域としては珍しく、本当に日本人の方だったのだ。

(※注 海外の日本食レストランの場合、郊外であまり本格的でないと、中国人や韓国人など日本人以外が経営しているところが多い)

ご自身も、渡米して直後は仕事が見つからなく辛酸をなめた経験を持たれていたので、私の状況にえらく同情してくれた。

そして、学校に合わせて無理なく働ける範囲で、週2回ほど、そのレストランで働かせてもらえることになったのだ。

友人の家を出てからも、学校を卒業する直前ぐらいまで、

ジャージーショアの日本食レストランにはお世話になった。

その後は、学校の近くでシェアハウスをみつけることができた。

これで、ようやく落ち着ける、と思ったら何とそこが強制執行にあってしまった。

プライバシーに触れるので、詳細は控えるが(私が悪いことをしたのではありません…念のため ^^;)

そのため数日学校を休まなければならなかったりで、卒業間近の、最後の最後でとんだハプニングだった。

自分一人で生きているわけでなかった

1年2か月のうち、何度となく、もうこのまま学校を続けられないかも…と思うことがあったが、

結局はストレ―トで既定の1年2か月で卒業することができた。

それで、こうして書いてしまうと、あまりにも陳腐で、凡庸な白々しい表現になってしまうのだけれど、

本当に、自分は一人だけで生きているのではない。

他人に助けられて、生かされているのだな、と初めて心から思った1年2か月だった。

 

 

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