これまで私がセラピー、スピリチュアルや占いなどに傾倒していたのを、
過去記事で書かせてもらった。
私のスピリチュアル遍歴
これまで占いが当たった4つのこと
もともと、そうした神秘的なものに惹かれる性質だったのかもしれない。
それに加え、生きていてとても苦しく、
それが解決できなくても、せめてその原因を知りたかったのでは、
ないかと思うのだ。
それはすなわち、至極ありきたりな言い方となってしまうが、
自分がどういう人間なのかを知りたいという、
自分探しにつながるのだろう。
私が生きづらさを感じていたことの原因として、
人生の前半では、両親との関係が大きな割合を占めていた。
特に母親との関係が破壊的に悪かった。
物心づいた3歳ぐらいの記憶で、
「本当は自分はもらいっ子で、自分の両親はどこか違うところにいてくれたらいいのに」
なんて、願望を持っていたぐらいだった。
成長するにつれ、どうやらこの両親とは紛れもなく血がつながっているのだと、
認識せざるを得なくなるわけだが、
いっそ、この両親がいない方がどんなに自分の人生が楽になるのではないか、
と考えずにはいられなかったほどだ。
こんな考えは、当時の私ですら、罰当たりだとは重々自覚していた。
本当に両親のいない人の苦労を考えたことがあるのか、だとか、
どんな親だっていないよりはましだ、なんてことを、
仮に私が両親への不満を口にすれば、言われること必至だったわけだ。
実際にそんな両親との関係にも日々苦しんでいたが、
それ以上に、自分の辛さを口にできない、
人から理解してもらえない、ということに、
絶望を感じるしかなかった。
自分の不器用さに苦しむ
両親との関係とは別に、自分の不器用さに大いに悩んでいた。食事の食べ方が下手だったり、よくものを落とす。
手仕事が雑。
自分の興味のあることに対してはどっぷり集中できるが、逆はまるでダメ。
運動神経が悪い。
方向感覚がとぼしい。
っといたような欠点が目に付くたびに、母親から激しく罵倒される。
自分で努力して直そうとするものの、一向に改善しない。
欠陥品のような自分が、嫌で嫌で仕方なかった。
これらの欠点は、今もなお顕著である。
しかし、現在の私は自分の不器用さと、
だいぶ折り合いをつけれるようになったのだった。
きっかけは、アメリカに来てから受けたセラピーだった。
アスペルガーの気があり、
そして不器用さには、物理的根拠がある、
といったことを指摘されたのだ。
実際、精神科でアスペルガーと診断を受けたわけではなく、
事実かどうかであるかは不明だ。
しかし病気であると認識すれば、
数々の自分の欠点を受け入れるのが、
ぐっと楽になったのだった。
自分はそのように生まれついてしまったのだから仕方ない。
そう受け入れられるようになったのだ。
ここではない、どこかへ
今にして思えばアスペルガー的性質、そして両親との軋轢が原因で、
思春期になる頃には、周囲から浮くようになってしまった。
不登校が中学後半から始まり、
高校になると、まともに登校できる日の方が少なくなってしまった。
電車で片道1時間以上かかる私立の学校に通っていて、
欠席はしないものの、満員電車に乗るのが耐えられなくなってしまい、
3時間目からの登校、といったようになってしまったのだ。
そうすると他の生徒たちから非難されることもあって、
ますます学校に行くのが耐えがたくなってきた。
もともと両親との関係に問題があるわけだから、
学校に行きたくないから、家にいるという選択肢は存在しない。
そんなことをしようものなら、心身ともの暴力をふるわれること必至だったからだ。
そういったわけで、遅刻しても嫌々ながらも登校していた。
ただどうしても学校に行きたくない・行けない日というのも、そこそこあった。
そんな日は市の図書館に行ったり、
またそこで本を借りて、電車の中でずっと本を読んでいたりしていた。
そんな中、アダルトチルドレンやインナーチルドレンについて書かれた本と出会うことになる。
今となってはだいぶ世間に浸透し、やもすれば忘れかけられているような単語ではあるが、
当時は目新しいものだった。
ここで、私は初めて自分の両親との問題が人から理解してもらえた気がした。
本でアメリカでの児童虐待への取り組みを知り、
アメリカだったら、自分の状況を理解して、助けてもらえるのではないか、
なんて思うようになっていったのだ。
そんな暗黒の高校時代だったが、私立の学校だったせいか、
遅刻や欠席が多くても、留年せずに無事に卒業することができた。
(続く)
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