女性なら誰でも、30才の誕生日を迎えるにあたり、苦々しい気持ちを覚えたことと思うが、
40才の誕生日に関しては、苦痛を通り越して、まるで拷問を受けているような気になるほど辛かった。
今年の夏に40才になってしまったわけだが、春先ぐらいから既に気持ちの落ち込みが始まった。
そして、夏が近づくにつれ、苦しみは徐々にレベルアップしていたのだった。
歳なんて数にすぎない。
確かにその通りかもしれないけれど、
実際は、そうではないということを、多くの女性は知っているのではないだろうか。
例えば、29才の私より、
31才の宮沢りえさんの方が、比較の意味すらないほど、素晴らしいわけだが、
私個人という話でもっていけば、29才と31才の私だったら、
あきらかに29才の私の方が市場価値があるわけである。
女性としての価値となると、
昔から「クリスマスケーキ」のたとえを持ち出すまでもなく、常識以前のことだが、
それ以外の人間としての価値すらも、年齢に大きく影響されていると思う。
明らかな例を挙げれば、就職で、資質が同じなら、30よりは20、40よりは35の人が採用されるのは間違いない。
これはアメリカでも同じで、
もちろん人並み以上に優れていて、人員の空きがあれば、日本では考えられないような年齢の人も、新人として雇ってくれるけど、
候補者が同じようなスペックだった場合は、当然ながら若い人の方が採用される。
高齢化が進んでいる現代では、40という年齢が、
私のような一部の人には、死刑宣告のような意味合いを帯びていると思う。
40といえば、逃れようもなく明白に、立派な「中年」に他ならない。
若さと引き換えに、経験や落ち着きや、これまでの蓄積からくる豊かさ…
それが、私が中年になった時に、得ることができると思っていたものだ。
しかし、こうして中年になってしまったけど、
私はただ若さだけを失い、その対価として何も得ることはなかったのである。
これまで自分がしてきたことに後悔はしていないし、その都度、やれるだけのことはやってきたつもりだ。
記憶を失くして、タイムマシンで過去に飛ばされたとしても、きっと同じことを繰り返すような気がする。
こうして家族・子供を持つことができず、まっとうな仕事も持つことができなかった。
よく主婦の人が、自分に収入がないことに悩んだり、
キャリアウーマンの人が、家庭やパートナーを持てないことに対し、負け犬感を持ったりしている。
それだったら、じゃあ、そのどちらの一方も持っていない、私はどうしたらいいというのだろう…
誕生日が近づくにつれ、毎日こんなふうに思って、自分が惨めで仕方なかった。
この時ばかりは、自分の誕生日を知っているような親しい知り合いが、身近にいないでよかったと思った。
一人で誕生日を迎えることの惨めさなどがよく語られるが、
私の場合は、むしろ自分一人に惨めさをとどめられることが、好ましかった。
誕生日のお祝い、というけど、いったい何を祝福するというのだろう?
40にもなったけど、結局、なにごとも達成できなくて、おめでとう!って…?
そんな感じで、悶々としていたけど、何事も「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のたとえ通り、
誕生日が過ぎれば、そういった悶絶も感じないですむようになった。
なった苦しみよりも、なる前の、断末魔のような苦しみの方が大きかったのだ。
その後、どうやって過ごしているかというと、すっかり開き直って、肩の力を抜いて生きている。
他の人から見たら、39才の私も40才の私も全く等しくどうでもよい存在だ。
しかし、40才の私本人は、39才よりも楽に日々過ごすことができるようになった。
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